むりく花ぬ 咲かりょうり
2020-01-02T17:36:23+09:00
murikupana
ふとしたきっかけで八重山の唄に出会い 遥かに続く歌三線の道に精進するというか悪戦苦闘する大阪のおばちゃんの記録
Excite Blog
デンサー節 覚書 その2
http://murikupana.exblog.jp/30655979/
2020-01-02T17:36:00+09:00
2020-01-02T17:36:23+09:00
2020-01-02T17:36:23+09:00
murikupana
お稽古
もっぱらフォークソングを歌うことにに明け暮れていた。
だから、いまさら「活舌」と言われても何をどうすればいいのかわからない。
暗中模索。
とりあえず県立図書館へ行って、アナウンサーとか、朗読とか、活舌とか検索キーワードに入れて何冊か借りてきた。二日ほどで、飛ばし読みして大事なポイント=毎日どのように発声トレーニングをするかを書き出す。
いわゆる「あ・え・い・う・え・お・あ・お」
ネット検索で「アメンボの歌」と「外郎売」もダウンロード。「パタカラ体操」というのもあったな。
とりあえず、毎日三線の稽古の前に「腹式呼吸」「朗読」「発声」をセットでする。それだけで結構時間がかかるので、最後には飽きてくる。すぐにでも三線をつかみたいのを抑えて、頑張る。
他人が聞いたら「なんじゃ?」やけど、ここは県立芸大のねきやから大丈夫。
ただお隣だけはきっと煩いと思うので、『仕事に出かけている間だけ』とルールを決める。一度「三線の音は癒されるわぁ~」と言ってもらったが実のところはわからないから、忖度して。
効果があったのかどうかわからないけど、朗読しているときに口角を意識して読むと良いみたいと気づく。
録音すると少しいい感じに聞こえる。
やはり継続してやっていると何かしら見つけられるものだ。
それと今はネットはすごいと思う。
プロに毛の生えた人たちがいろんなタイトルでYouTubeに投稿している。
玉石混合と分かったうえで見ると役に立つ情報も出てくるし、20年前とは雲泥の差だ。もちろん実際にトレーニングに来てほしいからさわりだけのことも多いけど、結構ヒントにはなるなと実感したな。
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デンサー節 覚書 その1
http://murikupana.exblog.jp/30619470/
2019-12-06T18:26:00+09:00
2019-12-06T18:26:01+09:00
2019-12-06T18:26:01+09:00
murikupana
お稽古
ぶねーぬナガニゆ みやーてぃ 世間ぬ道ゆ ならーしょった
ふどぅばしひょったる ぶねーや 我ぬが誇でんさー
我親ぬ云言葉 今ん肝に染まり
まっとーばぴとぅでなりよ 胸に深くでんさー
今までの私の癖。
お腹の力を抜かない→意識が他にそれると腹式が胸式になってお腹の支えが緩む
発音が鼻にかかる→なかなか治らず
ビブラートをかけない→お腹の支えが緩んだり、
声が気持ちよく出ると部分的にかかる
どぅ、ぴとう、ぬなど「U」の母音が苦手。
口腔の形が「O」の母音に縦に広がってしまう
声をぶら下げない。のせる。
それに「言葉がはっきり伝わらないと何を歌っているかわからないよ」と
活舌も問題あり。
さ、どれだけ矯正できるか、間に合うのか。
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気付いたこと
http://murikupana.exblog.jp/29398127/
2018-03-28T12:47:00+09:00
2018-03-28T12:47:20+09:00
2018-03-28T12:47:20+09:00
murikupana
お稽古
特に早調子はリズムよく刻みながら、歌わなければなりません。
ハミングではだめなんです。しっかり声出して歌う。
暗譜した三線の手が体に染みついていないと難しいです。
8年前、私はある早調子の曲を覚えたつもりで
上手く歌えませんでした。ハミングのような芯の無い声でした。
悔しい!
今回、掛けられるだけの時間をかけて稽古して、
高速でもゆっくりでも歌えるようにして臨みました。
しっかりした芯のある声で歌い、リズムを崩さず弾く。
完璧ではないでしょうが、やりきったと思います。
何日か過ぎてある人と話しました。
「早調子を早く弾けない人は稽古次第で速く弾けるようになるけど、
早く弾ける上手な人ってゆっくりは弾けないんだね」
「いや、ちかさん、それは上手いって言わないよ。
早くてもゆっくりでも最初刻んだテンポが体の中に入ってないと狂ってくるし。
上手な人はゆっくりも弾ける、早くも弾ける」
テンポを維持するって難しいです。特に早調子を少しゆっくり弾くとき。
パッカパッカの「ッ」の長さを体が覚えないと早くなっていくし、
苦手な運指の部分はべたっとした弾き方になってしまいます。
そこで焦るとアクセルがかかります。少しずつ早くなってくる。
最初に刻んだテンポが最後まで維持できるように稽古しようと
考えさせられた深夜の電話でした。
リズムを刻んで、しっかりした声で歌えるようにする。
あくまでも私の場合ですけどね。
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響ましょうらやいまうた 大工哲弘・苗子うた会 覚書 その2
http://murikupana.exblog.jp/29394028/
2018-03-26T13:17:00+09:00
2018-03-26T13:17:35+09:00
2018-03-26T13:17:35+09:00
murikupana
お稽古
昼の部、開演です。
照明が明るくなった客席にはぎっしりのお客様。
何度体験してもこの幕開け斉唱は清々しくて厳かな気持ちになります。
和可奈ちゃん、見てる?
赤馬節。本盛先生始め研究所の方々が花を添えて踊ってくださいます。
本盛先生のグレーの麻の紅型打掛がシックで、
廻りの方の朱赤の衣装ととてもあって綺麗でした。
鳩間節は黒のスディナに四つ竹を持ってゆったりと踊ります。
とにかく早くならないように気を付けて歌いました。
ここまででいったん私たち弟子の出番は終わります。
続いて先生のお孫さんのエイサー、先生の独唱、
苗子さん、真司さんとのでんさー節の合唱と続きます。
妹の高嶺さんが笛を吹き、家族で歌えるって素敵!と感じた合唱でした。
二部は先生と私たち大哲会が歌うゆんたで始まりました。
富崎野ぬ牛なーまゆんた~月出ぬはなむぬ。
八重山にゆんたはたくさんありますが、その中でも牛なーまは好きな歌です。
富崎野のあの雄大な草原が目の前に浮かびます。
続いて亀久畑節からまんがにすっつぁ。舞踊が入ります。
今回一番稽古した曲、亀久畑節。
8年前のくいぬぱな節の苦い経験があるので、何百回弾いたか覚えていません。
亀久畑の早調子と最終決まってから、そう、ほぼ毎日。
暫くぶりにマッチ棒一本、二本と数えました。
毎日聴かされたご近所の皆さん、御免なさい。
お陰で自分の中では悔いなく歌いきれました。
コーニーズのまるまぶんさん~殿様節、幸太さんと吉原さんの小浜節、
そして再び先生と苗子さんのステージに続きます。
私が舞台袖で聴けたのは、とぅばらーま、くいちゃ踊り、満州娘だけでした。
とぅばらーまを聴きながら
「あぁ、私、先生のこれを聞いて八重山民謡始めたんや」と思い出していました。
何度聞いても先生のとぅばらーまはぐぅっときます。
歌声に心が乗っているから…。
楽しい時間はあっという間に過ぎます。
気が付けば、もう夜の部の弥勒・やーらようを歌っていました。
身体は疲れているのに、気持ちは超ハイテンション、頭の中がフワフワしてます。
終演は時刻ぴったりに終わりました。
緞帳が下りて、唄が終わった時「はぁ~」と大きな吐息が一つ。
さ、急いで撤収して、二次会の会場、我如古より子さんのお店SunSeaNへ。
半地下にステージのあるお洒落なお店でした。
前回もそうでしたが打ち上げが22時過ぎから25時までって、どんなん?
各地から来た仲間と話に花が咲き、大工先生に古稀のお祝い、
苗子さんに功労賞の記念品をお渡しでき、
より子さんの娘ジントヨ~も聞けました。
結局一次会だけで帰ったにもかかわらずベッドに入ったのは3時過ぎでした。
長い長い一日が終わりました。
明日は11時台の飛行機なので、今回も観光なし、会場缶詰でしたが、
濃い毎日だったので満足しています。
何人か、那覇に住む友人に会えなかったのが残念ですが、
贅沢を言ったらキリがないです。
こうして那覇まで来ることができ、国立劇場という大きな舞台に立てました。
素晴らしい経験をさせていただいたこと、感謝しています。
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響ましょうらやいまうた 大工哲弘・苗子うた会 覚書
http://murikupana.exblog.jp/29391853/
2018-03-25T13:23:00+09:00
2018-03-25T13:23:47+09:00
2018-03-25T13:23:47+09:00
murikupana
お稽古
その記録です。
仕事を放したといえ、母の介護があるので妹の協力無しには出られません。
不安を隠して「行っておいで」と言ってくれた母、泊まり込んでくれた妹、
一緒に稽古した仲間、総ての人達に感謝して。
何よりも今までご指導くださった大工先生に心よりお礼申し上げます。
2018年3月18日(日)15時開演/18時30分開演国立劇場おきなわ 大劇場
出演 大工哲弘 苗子
舞踊 本盛美奈子 秀風会 八重山舞踊研究所
箏 琉球筝曲興陽会 神谷宏美研究所
キーボード 嘉手苅聡
コーニーズ
伊藤幸太 大工真司 真名人 結衣真 陽真利
太鼓 大城朝夫
笛 屋宜公
司会 島袋千恵美
八重山うた大哲会 会員一同
セットリスト
第一部 赤馬節~目出度節
鳩間節
エイサー
高那節 やぐじゃーま くいぬぱな あがろうざ
でんさ節 安里屋節 八重山育ち
第二部 富崎野ぬ牛なーまゆんた
月出ぬはなむぬ
亀久畑節~まんがにすっつぁ
まるまぶんさん~殿様節
小浜節
望郷哀歌 愛の子守歌 生活の柄 とぅばらーま くいちゃ踊り
満州娘
弥勒節~やーらよう
17日、母を見てくれる妹に引き継いで、神戸空港からSKYで出発しました。
最近のSKYは遅延が少ないと思っていましたが、少し不安。
が、なんと20分も早くつきました。偉いやん SKY!
陽子ちゃん、宝塚の池内さんの三人でタクシーを飛ばして、
国立劇場おきなわに急ぎます。
大哲会のリハは始まっているはず…と、やきもきしましたが、
タクシーも10分ほどで会場に到着。新トンネルのおかげでとても早いですね。
リハはサクサクと進みました。
踊りとの手合わせで、スピードとリズムを合わせるのが一番大変でした。
早すぎても遅すぎても駄目で、気が焦ると音がワシャワシャになって踊れません。
大阪は普段から猪妻玉子先生に地謡の稽古をさせて貰っているので、
歌いだしのタイミングが身についていて有難かったです。
明日にこのテンポが保てないと駄目です。信じましょう。
その後、コーニーズ、幸太さん、吉原さんの独唱と進み、
時間きっちりに私たちは終わりました。
県庁前のホテルマルキへチェックイン、どこへ行くとも決めてなかったので、
メンバーからの連絡を待っているとなんと~。
「ちかこさ~ん、今夜出て来れますか~」と和可奈ちゃんから電話がありました。
(彼女が小学生の頃からの友達です。今は結婚しています。)
読谷から?と慌てると実家だそうで、なら、会おうよとなり
ジョイフルじょうがく店で食事しました。
お母様も一緒です。
彼女は明るくてほのぼの~としていて、よく笑う女の子ですが、お母様も同じ。
親子って似ています。ほんと、仲良いなぁ~。
楽しいお喋りの時間はすぐ過ぎて、ホテルに帰ったら10時頃でした。
まだ皆居るかなと二組に連絡するも「これから帰る~」とつれない返事。
フロントで「おすすめのお店あります?」と確認して
連れて言って貰ったお店、久茂地の「とどろき」は大正解でした。
お魚は新鮮、普通の居酒屋ですが、聞こえてくる会話のイントネーションが沖縄!
ジモッティばかりのお店っていいですね。
ということで初日は過ぎていきました。
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大工哲弘 琉球弧を渡る風 南島唄会2018 覚書
http://murikupana.exblog.jp/29296004/
2018-02-13T22:58:00+09:00
2018-02-13T22:58:35+09:00
2018-02-13T22:58:35+09:00
murikupana
お稽古
大工哲弘・苗子
清村斉・kei kawa
チンドン通信社 林幸治郎 小林信之介 ジャージ川口
大哲会関西 豊中・大阪・大阪中央支部
セットリスト 一部
大哲会関西 富崎野ぬ牛なーまゆんた~とーすぃ
月出ぬはなむぬ
まんがにすっつぁ
安里屋ゆんた
清村斉 Kei Kawa 正月ぬえーぐ
なりやまあやぐ
多良間ションカネー
わーり美島多良間島
くいちゃー
大工哲弘 苗子 高那節
鳩間節
くいぬぱな
やぐじゃーま
与那国ぬ猫小
セットリスト 二部
チンドン通信社 潮来傘
大阪しぐれ
大工哲弘 チンドン通信社 美しき天然
影法師
ハイカラソング
道頓堀行進曲
炭坑節
河内音頭
浪速恋しぐれ
十九の春 大阪バージョン
生活の柄
新安里屋ゆんた(全員で)
とぅばらーま
さよなら港(苗子さんと)
昨日までの雨が嘘のようにすっきり晴れた、でもとても寒い一日でした。
先生のオープニングアクトを務めるために、リバティ大阪に集合しました。
少しの緊張と一杯の高揚感で、みんなの声も弾みます。
豊中、大阪、中央支部のメンバー総勢23名です。
今は別の支部ですが、もともとの根っこは同じです。
先生の歌う八重山民謡を学びたいという思いは一緒なので、
息はぴったりでした。
ゆんたは無伴奏で歌います。だから「語尾の音程を下げない」
それだけを意識して、声を飛ばそう!力を込めて歌いました。
ゆんたは本当にいいです。
歌っているうちに目の前に富崎野が浮かびます。
苦手の早調子のまんがにすっつぁも一か所もつれたけど大事に至らずでした。
清村さんの宮古民謡は正月のえーぐを袖で聴けなかったのが残念ですが、
多良間ションカネーは初めて生で聴きました。ええお声でゆったりと。
聴きごたえありました。
大工先生と苗子さん、安定の魅力です。
苗子さんは箏を弾きながら(つまり俯いて)歌うので大変だと思います。
私はあのちょっと掠れた、でも芯のある苗子さんの声が大好きです。
あんな声が出せればいいのにって、憧れますがない物ねだりですね。
で、二部です。
チンドン通信社さんは、そりゃもうプロ!このお三人ですものね。
トークの盛り上げ方が半端ない。音楽も最高。
大阪しぐれはジャジーで、アンニュイで素敵でした。
で、うちの先生とのコラボは
先生の歌詞が見つからなかったり、
ちんだみが合ってなかったりとハプニングはありましたが、
それもご愛敬で会場を笑いの渦に巻き込み、ゆるーく楽しく進みました。
凄いなぁ~、このジョイントは。
最後のとぅばらーまは圧巻でした。一番はアカペラで、二番は三線で。
「囃子は会場の皆さんが入れてくださいね。」と一人で歌われて
会場から、舞台袖から、男性から、女性から囃子が飛んできた時は
鳥肌が立ちました。
凄い!
関西の会場で、こんなこと、記憶にないです。
会場と客席と一体になった良いコンサートでした。
打上は大正区のいちゃりばで。
母の投薬の時間があるので途中で退席しましたが、
私のお友達とすごく縁の深い橋本さんとご一緒になりました。
どこかでお目にかかったらご挨拶したいと思っていたので、良かったです。
明日につながる楽しい一日でした。皆様に感謝です。
撮影禁止だったのですが、お友達が撮影して送ってくれたので、
少しだけ。お友達限定です。
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新年に。
http://murikupana.exblog.jp/28990505/
2018-01-07T22:00:00+09:00
2018-01-07T22:00:20+09:00
2018-01-07T22:00:20+09:00
murikupana
お稽古
今日は支部の総会&初興しでした。
昨年に仕事を手放したので、
年末から年始にかけては少々時間ができました。
大晦日も元旦も二日目もお家にいて、
TVで福袋の販売の様子を見ていました。
もちろん、三線も一杯弾きました。
毎年何をテーマに一年の稽古をしようと考えるのですが、
今年はステージも多くあるので「暗譜」に決めました。
私の工工四は真っ赤です。先生に注意されたところや、
自分でできなかったところに朱が入ってます。
その他鉛筆や青のマーカーも。
とにかく賑やか。
それを見て歌う方が安心やし丁寧に歌えるのでついつい見てしまう。
今年は一年、それを放します。
とにかく見ないで音の流れを覚えて、それに声を乗せる。
それなりに歳を重ねてますから、時間はかかるかもしれないですが、
一か月一曲、で一年で12曲。駄目でも10曲。素敵!
まずは亀久畑節とまんがにすっつぁ。
ほぼ手は入ってますが、歌詞が…ね。
特にまんがにすっつぁは女性の名前が覚えきれない…。頑張ろう~。
健康で三線を弾けることに感謝して。
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真似節
http://murikupana.exblog.jp/28386673/
2017-11-27T22:28:00+09:00
2017-11-27T22:28:47+09:00
2017-11-27T22:28:47+09:00
murikupana
お稽古
20年近く、八重山民謡を稽古していても、歌えない歌はあります。つまり稽古をしていない曲ですね。
なぜ稽古してこなかったか。
音源が少ないから…。
師匠が歌っていないから…。
地味だから…。
節にメリハリがないから…。
私の場合、これに早いから…と言うのも入りますが。
このうち、「音源が少ない」「師匠が歌っていない」は解決されました。
普段私たちが使っている工工四の全曲を師匠がCD10枚組にしてくれました。
ほんと、ありがたいことですが、これで音源ないしと言う言い訳は使えません。
そして最近速い曲も何とか形になるようになってきました。
まだまだ刻みが甘く、疲れてくると乱れます。
体力勝負です。昔誰かが上腕二頭筋を鍛えるって言ってたな~。
で、新曲ですが、この真似節です。
地味です。節のメリハリと言うか流れがゆったりしています。
二揚げの歌のようにドラマチックではありません。
でも、どうしても完成度高く歌えるようにならなきゃ駄目なんです。
はい、頑張ります。
とりあえず、三線の手は入りました。たぶん…。
上句の節回しの難しい処、繰り返し集中してやっていますが、
基本イラチなので、師匠よりタイミングが早い部分があります。
これを早く修正します。
あと何曲か、今まで歌っている歌でも細かい部分修正して、
きっちり歌えるようにならないとあきません。
久しぶりに気合入った稽古ができています。
なんか、楽しい。
難しい歌やけど、楽しいな。
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断捨離中。で、懐かしいものが…。
http://murikupana.exblog.jp/28216891/
2017-11-08T21:59:00+09:00
2017-11-08T21:59:56+09:00
2017-11-08T21:59:56+09:00
murikupana
日々のあれこれ
もっぱら建築図面をひいていたのでテキスタイルデザインは門外漢でした。
これってちょっとしたことが理解できなくて時間がかかったり、
染織出身の先輩にチョコチョコ嫌味言われたり…。
「なんだか、悔しいな~」と当時勉強に通っていたのが、
目黒区碑文谷にある川島テキスタイルスクール東京工房です。
別科に在籍し、毎週土曜日の午後はそこで過ごしていました。
どこにそんなパワーとお金があったのか、毎日仕事をしながら(しかもほぼ終電)
毎週末、緑ヶ丘から都立大学へ飽くことなく通ってました。
糸、染、紡、織、造形…。
ここで仕事に必要な知識も吸収できたし、フェルティングやカーディングなど
楽しい作業も一杯教えてもらいました。
今日、押入れの奥の何年と開けていない衣装ケースから
当時の資料の一部と「修了証」が出てきました。
織りに関する道具や、何時か紡ごうと残しておいたウールの塊などは、
すべて知人に譲ったので、もう残っていないと思っていましたが、
建築の資料とともに出てきたんです。
おおぉ~~、懐かしい~~。
何にでも必死で一生懸命生きていた時期。仕事の失敗や、悔しい思いは
ひたすらシャトルを飛ばしてパッタン、パッタンしているうちに
明日も頑張ろう!って思えました。
ちなみに昭和50年の私の給料は7万9千円。
54年の別科の第5講座の授業料は1万6千円、織機リース料が6千円となってます。
少ない給料の内からやりくりして出していたんだなとちょっと切なくなりました。
ほぼ毎月給料前は金欠で、ランチ抜き、牛乳と肉まんの夕食、
お米炊いて、キャベツにしょうゆ掛けてそれがおかず!な日々でした。
それでも苦にならず、毎日がキラッキラしてました。若かったな~です。
当時からの仲間で今も友人のUさんに「いる?」とラインしたら
速攻で「送って」と返ってきました。
私はこれからも織ることは無いけど彼女は60歳から再び手織りを学び始めました。
参考にしてもらえるならこんな嬉しいことはないので、明日早速送りましょうね。
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ライブにて
http://murikupana.exblog.jp/26716885/
2017-06-05T22:05:00+09:00
2017-06-05T22:05:56+09:00
2017-06-05T22:05:56+09:00
murikupana
日々のあれこれ
高校の軽音楽同好会でバンドを組みフォークソングを歌っていました。
森小路にある平和の子保育園のフォークスクールで歌を歌ったり、
テーマを決めて話し合ったり。
相当頭でっかちの高校生だったと思います。
同じ頃、難波元町にある喫茶店「ディラン」によく行っていました。
当時のサブカルチャーを知る人には「ディラン」といえば超有名な喫茶店です。
5坪くらいの小さなお店で、大塚まさじさんと石村洋子さんが経営していました。
とても居心地が良く、音楽をする若者が各地から次々と訪れ、
あっという間に有名になっていきました。
今なら、「不良」のレッテルを張られるかもしれないけれど、
時代の空気がそういうこと(高校生が喫茶店に出入りすること)を
許していました。自己責任、私は平気でした。
ある時、私はディランを出て貧血を起こし、救急車で運ばれました。
同乗して病院までついて行ってくれたのが、ながいようさんです。
時間が過ぎ、私も高校生、大学生、社会人となって関西フォークから足も遠のき、
風太さんの春一番も行かなくなって。
永井さんが大塚まさじさん、西岡恭三さん、と一緒に
ディランというバンドで活躍しているのは知っていましたが、
会うこともなく何十年と経ちました。
何がきっかけだったのか、ふと思い出し。
そうそう、本店8階の中古レコード・古書の催事で
大塚まさじさん、糸川燿史さんのトークショーを懐かしく聞いていたんだっけ。
それがきっかけかなぁ。
救急車の時のお礼はちゃんと伝えていたのだろうかと気になり検索しました。
フェイスブックで見つけたのですが、同じ名前の別人かも…と。
じっくり写真を見てみると当時の雰囲気と全く違う、
でも目の優しさは同じ、おじさんがそこにいました。
お互い様ですが、「あぁ、月日は過ぎたんだ」と思いました。
当時は髪はアフロだったか、腰までの長さだったか、
そして黒縁の目が目をかけていたよね。
かと言って、私の事を、救急車の一緒の乗ってくださった事を、
覚えておられるのかどうか…。
とりあえずメッセージを差し上げました。
帰ってきた返事が「覚えているよ!元気ですか?」
「僕は今、嫁の故郷、読谷に住んでいます。
ライブで時々関西に行くから。会いたいなぁ。」
すっかり嬉しくなって「近々、ライブに伺いますね」と返事しました。
5月末のある日の夕方。
ライブ会場の寺田町「ロビン」を訪ねると、
「おちかさん!懐かしいなぁ」
もちろん、自分で名乗ったからでしょうが、面影を見つけ出してくれたのかな。
当時のあだ名「おちかさん」と言ってくれたのが面映ゆかったです。
ディラン時代の有名な曲も含めてたっぷり2時間、
ライブを楽しみました。
昔からギターが上手でしたが、やはり、プロですものね。
当時よりずっと、ずっと、磨きがかかっていて感動しました。
ギター、バイオリン、ブルースハーブ、の織り成す音が優しく心にしみました。
やさしさと愛を一杯感じて、今こうしている時間に感謝して。
じっくりお家でも聴こうとCDをいただいて帰路につきました。
母が待っているので長居ができずゆっくり話せなかったのが残念ですが、
駅までの道、歩きながら、心がほっこ、ほっこしました。
おまけです。
当時ディランのママをしていた洋子さんとも再会しました。
鳥肌が立つほどびっくりしました。
60歳半ばになって、何十年も過ぎて、会えるなんてどれだけ嬉しいものか…。
話している途中で「ディランのママ?洋子さん?」と気付きました。
雰囲気がそのまま残っていました。本当に昔のまま。
またどこかで会えますよねと連絡先を交換しました。
気持ちが一気に高校生に戻った時間でした。
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勤務最終日
http://murikupana.exblog.jp/26603556/
2017-04-22T00:28:00+09:00
2017-04-22T00:32:33+09:00
2017-04-22T00:28:50+09:00
murikupana
日々のあれこれ
大学卒業してから職場は3つ変わったけれど、43年間、よう働きました。
もっとセンチになるかな?と思ったけれど、案外そんなこともなく淡々と。
百貨店の常で、最終日が遅番というのもご愛敬でした。
同僚や、売場ののアルバイトさん、そして以前に在籍していた職場の方から
表彰状や、お膳別、普段絶対買えない大きな花束など一杯プレゼントされて
まるで宝塚のトップさんのようでした。
勤務を終えて女子ロッカーに行くと、
これだけ花束や何やら持ってたら気づくよね。
「え、山本さん!ひょっとして?」
「そうだよ、今日が最終。今までありがとうね」
「え~~、会えてよかった!、元気でね」とあちらこちらでご挨拶できました。
結局43年間の内、大和商事が8年半、アトリエコロが3年半、阪神が31年と
阪神が一番長くお勤めしたことになります。
どれだけの部署で仕事したのかなと数えると10個ありました。
商品企画室
家具・家庭用品部
ディアモール大阪準備室
海外事業部
販売促進部
呉服・美術・宝飾部
法人外商部
家庭外商部
エビスタ阪神
タイガースショップ と賑やかやなぁ。
一つの部署で長く仕事をする専門職に憧れますが、
「百貨店勤務はどこへ異動させられても、そく戦力となる総合力を求められる」と
頑張ってきました。仕事好きですし異動は苦になりませんでした。
それぞれの部署で上司や仕事に恵まれて良いサラリーマン人生やったと思います。
でも、もし、もし「今までの職場でどこが一番よかった?」と、聞かれたなら、
迷わず一つ目の会社、大和商事と答えるでしょう。
私が百貨店で長く仕事ができる基礎を作り、育ててくれたのはそこだから。
倒産してしまって今はもうありませんが、社会人として多くの事を学びました。
学卒の生意気なペーペーを、本当に根気よく指導していただいたと思います。
大和商事で教えてもらったことが阪神百貨店で活きました。心から感謝します。
今でもタイムカードを押して最終電車に乗るために
神泉駅へダッシュしている自分を懐かしく思い出します。
これからどんな時間を過ごすのか、まだ一週間しか過ぎていないので
実感がわきませんが、昨日までの自分に笑われないように、生きたいと思います。
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何度目かわからない救急搬送と医者のあれこれ
http://murikupana.exblog.jp/26562592/
2017-04-06T23:35:00+09:00
2017-04-06T23:35:23+09:00
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murikupana
日々のあれこれ
「キヨさんがしんどいから救急車を呼んでと言ってます」
やれやれ、いつもの発作と私はわかっているけれど、
ヘルパーさんはそんな事に慣れていません。
ちょうど一週間前も同じような状態で、
私と連絡がつかなくなって焦っていたっけ。
病院についた頃には良くなるとわかっていても
ほっておくわけにもいかず、救急の手配してもらってとんぼ返りしました。
湊町にある富永病院に着くと母は処置室で点滴を受けていました。
待つこと一時間。
呼ばれて入ると母は「ん~ん、ん~ん、痛い~」と唸っていました。
(慢性心不全は不整脈が起きるので、気持ち悪くてしんどかったり、
心臓が痛いと感じたりするそうです)
処置してくれた桑〇医師はPCのデータを見ながら説明してくれました。
「BNPがこれこれで、CREAの値がこれなので
心臓以外に腎臓もダメージがあります」
「では、今夜は入院ですか?」
「いや、この値では入院の基準を満たしていません」
「は?どういうことですか、それ?」
「じゃ、先生はこんなに唸っている母を
タクシーに乗せて連れて帰れ!というんですか?
よくそんな非人間的なこと言いますね」
「いや、そんなふうには言っていない」
言った、言っていないの押し問答のすえ、私は完璧に切れました。
「お母さん、帰ろう。こんなところにいたら余計状態が悪くなる。お家に帰ろう」
結局私の剣幕にびっくりしたせいか(笑)母の発作はスッと収まりました。
「こんなにしんどいのに入院もでけへんの?」といったのが
切なくて、かわいそうで。
最後に桑〇医師が捨て台詞のように言ったのは、
あなたの言葉で私は傷ついたとか、なんかそんなニュアンスの事でした。
では、あなたは「入院基準を満たしていない」と言われたら
患者や家族はどんなふうに思うのか考えたことはありますか?
傷つくどころか、入院もできない、こんなにしんどいのにどうしたらいいのって
とても不安になるでしょう?それをわかっていますか?
医者はそういうところも配慮してくれるものと思っていましたが、
今日で認識を改めます。
しょせん勤務医は勤務医。
面倒くさい患者、治る見込みのない患者(母はどちらも当てはまります)には
つれないもんです。
たぶん母は、死ぬまでこんなしんどい状態が続くのでしょうね。
慢性心不全とはそういう病気だと思います。
今回、病院名と医師名を書くのに躊躇しました。
書いてしまうと、次に何かあってももう搬送できません。
ネットの世界はずっと消えないからその内容が
お家の玄関に書いて貼れるかどうかが判断基準ということも理解してます。
それでも我慢できなかった。だから書きました。
もう寝ます。
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独唱会
http://murikupana.exblog.jp/26130782/
2016-11-08T00:49:00+09:00
2016-11-28T20:30:10+09:00
2016-11-08T00:49:10+09:00
murikupana
お稽古
母の発作からピタッと書けなくなっていたのですが、
8か月ぶりの更新になりました。
昨日は大阪支部の「独唱会」でした。
普段ボランティア演奏もなく、稽古中心の活動なので、
メンバーほとんど人前で歌う経験がとても少ないです。
独唱を重ねることで人前で歌う緊張感が少なくなったら…という
支部長の思いで開催されました。
さて、私はどういうテーマでこれに臨もうかと考えて、「暗譜して歌う」に決めました。
三線を始めてもう10年以上ですが、いまだに暗譜して歌える曲が少ないです。
人より暗譜が遅いのもあるし、何より1曲入れば1曲逃げてしまう。
難儀なこっちゃ~!です。
それでこれならと、三線を始めたころから好きな曲、2曲に決め当日を迎えました。
16名あまりのメンバーが思い思いの曲を歌います。
私はでんさー節とあがろうざ節。
でんさー節は先生の歌詞で歌い、
あがろうざ節はもうじきお母さんになる人のために歌いました。
ほんとうに久しぶりに「歌って楽しい」と思えました。
この感覚、長いこと忘れていました。
三線を始めた頃は歌っていて楽しく、1曲マスターするたびに喜んでいましたが、
いつの間にか修行のようにストイックになっていたんです。
節の音程や、タイミングが合っているのか、声は上がっているのかに一喜一憂しました。
今は、介護のために時間が取れないので稽古量は減るばかり、
当然声は出なくなり、苦手な早調子も余計に手がもつれるます。
もう声は上がらないのでは?という不安と、いや稽古ができれば大丈夫!
迷路を歩くように気持ちが行ったり来たりしていました。
母の事も少し恨んだりしてね。いや、かなり・・・かな。
だからこの「歌っていて楽しい」と感じられたことは貴重な体験でした。
三線を始めたころの素直な気持ちに近づいていました。
吹っ切れたのでしょうか…。それともでんさー節の歌詞に刺激されたからでしょうか…。
録音した音源を聞くと「あちゃ~~!」です。
声が割れている(枯れている) 細かいビブラートがかかっている
必要な高さに声が上がっていない、一息で歌えたところにブレスが入っている、などなど。
先生に聞かれれば「何しているんだ」とお𠮟りを受ける出来ですが、
それでも気持ちは穏やかです。
良くない部分は直せばいい。でも楽しくないことは何をしても駄目だから。
さ、明日からまた、さ・い・し・ょ・の・だ・い・い・っ・ぽ
世間けぇら 友くーなーぬ 情けば給られ 東京んが
歌ばいざり 比ぬ嬉しゃ 夢んやーどぅ 思り でんさー (大工哲弘より)
15年の間、傍にいて支えてくれたすべての三線仲間に感謝して。
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再び、救急搬送
http://murikupana.exblog.jp/25353146/
2016-02-29T00:17:18+09:00
2016-02-29T00:17:07+09:00
2016-02-29T00:17:07+09:00
murikupana
日々のあれこれ
2月20日、夜の11時30分頃、今年に入って二度目。母を救急搬送しました。
階下の様子がおかしいので見にゆくと、ベッドの上で身体を折り曲げて唸っていました。
一目で「アカン!」と感じ、迷うことなく119。
救急車が来るまで、保険書や診察券まとめて、財布に現金突っ込んで、
バタバタと準備しました。
暴れるので担架ではなくシート状のもので車内へ。
速攻、酸素マスクと血中酸素をはかる器具を装着されました。
救命士の方がいろいろ受け入れ先を探してくださいましたが、
結局2病院に断られ3つ目で受け入れていただきました。
その間母は「苦しい、息ができない、辛い、しんどい」とわめきっぱなし。
息がしにくいからパニックに陥ってたのだと思います。
救命士さんが「多分、心不全です」と。「え、心房細動やないの?その検査してるのに。」
あとから病名の意味や、連鎖して起こる症状について、かなり詳しくなったのですが、
その時は「???」でした。
今まで何度か救急搬送していますが、こんな状態の母を見るのは初めてです。
ほんの数分の事ですがもっと長く感じ、正直、もう駄目かも…と思いました。
湊町のT病院に到着して、処置室に運ばれ、
強制的に酸素を送る装置をつけられ様々な処置を受け、一命を取りとめました。
私は医者ではないので上手く説明できませんが、
血圧が高くて、血液が心臓へ送られても送り返す力が心臓に無く、
圧がかかるので血液中の水分がじわっと肺にしみ出て
息が上手くできない状態だったそうです。
当直の処置していただいた先生に説明を受けました。「うっ血性心不全」と言われました。
その日はHCU(ハイケアユニット・以前はICUと言っていたような)での入院となりました。
身体が楽になってからは会話も少し出来たので、入院することを納得させ、
私が自宅に帰りついたのは朝の4時でした。
これで終わりではなく、本当に大変になるのはこれからでした。
翌日曜日、メールで知らせた妹夫婦と一緒にT病院に行きました。
思った以上に母は元気で会話に頓珍漢なとこはなく、
私たちが病室を出る時も納得した様子でした。
月曜日、会社に半休をいただき妹と一緒に病院へ。
母は一般病室に変わっていましたが、そこはかなり重症の方が入っておられ、
ずっと機械の作動音がしています。
痰が切れなくてゼロゼロ言っている方、
時々ウォーと吠える方、
あらぬ方向を見てじっとしている方、など、
健康な私でも「嫌やなぁ」と思ったので、気持ちが弱っている母にはもっと堪えたのでしょう。
私の方が先に出て仕事へ、妹が残れる時間まで残ってくれました。
そこまでは上手くいっていたのですが。
もうすぐ勤務が終わる8時ちょっと過ぎ、売場に居た私のスマホが鳴りました。
T病院の夜勤の看護師さんからでした。
「お母さんがお家に帰ると言われているので説得してください。」
何とか説得して(つもりになっていた)私は帰宅しました。
途中地下鉄の中で再びスマホが鳴り、
「お母さんがうちに帰ると言って一階の玄関から動きません」
「来られて、説得してください」でした。
ちょうど日本橋に着いたところで、頭抱えながらタクシーに乗りました。
母は寝巻にカーディガン、妹が買ってあげた週刊誌二冊を抱えて一階に立っていました。
そばに看護師さんが諦めたように立っていて…。
きっとものすごく心細かったことでしょうに、
その時の私は母を病室に戻すことしか考えていませんでした。
鬼です。可哀想な事をしました。
母の喋ることもつじつまが合わなくなってきて、言動におかしなものが混じってきました。
私が病院に着いたのが9時前。母が眠剤の注射で眠ったのが12時頃。
その間、起き上がって帰ろうとする母をなだめて
「眠るまでここに居るから」と言ってもすぐ目をあけてきょろきょろします。
この病室の患者さんの痰の詰まった音や機械音などすごく怖かったのでしょう、
眠れるわけ無いですよねぇ。
帰宅するタクシーの中で決めました。「退院させよう」
心臓の状態は良い状態に制御してもらえても、このままでは痴呆が進みます。
どちらが母にとって幸せなのか。
少ししんどくてものんびり出来て、大好きなもものいるお家に戻してあげよう。
たとえそれが自分の首を絞める結果になっても、「仕方ないか…」 覚悟しました。
火曜日、病院に電話して退院を告げ、昼前に迎えに行きました。
バタバタと退院の荷造りして帰宅。
母に「お昼ごはん、何する?」と聞くと「お寿司」といったので二人でお寿司をいただきました。
母の言動は相変わらず妄想か夢かわからない話をしますが、
もも(猫)を抱いていると落ち着くようでした。
次の発作がいつ?という不安はあります。母はもっと怖いでしょう。
でも、その時は「しゃぁない」と私は覚悟ができました。
まだまだじたばたするでしょうが、少しづつ気持ち切り替えていこうと思います。
退院して今日で5日目になりました。
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母のその後。
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2016-02-01T01:33:00+09:00
2016-02-01T01:32:57+09:00
2016-02-01T01:32:57+09:00
murikupana
日々のあれこれ
「ちかちゃん、お母さんは大丈夫?」と
とても心配して、尋ねてくださいました。
その方のお嫁さんとはFB友達。
内容を読んでびっくりされたそうです。
よく考えれば、救急搬送しました、としか書いていないので、
その後のことがわからず心配して来てくださったのです。
母はお陰さまで昨日からベッドから起きて
座れるようになりました。
すっかり元気というわけではないですが、
普通に喋れるようになっています。
ただ、救急搬送の翌日、
ホームドクターの診察で心電図を取り「心房細動」が見つかりました。
母の不整脈の原因です。
どうき、息切れ、眩暈などの症状と、そして一番怖いこと。
心房細動による脳梗塞をかなりの確率で発症する事、
そして脳梗塞による死亡の50%が心原性であること、です。
「本当にそうかどうか検査をしようね」ということで
大阪市大で、検査をします。
それが水曜日、多分一日がかりです。
そして私が那覇入りするのが金曜日。
ん~ん、微妙!
たとえそうでも「お薬変えて様子を見ましょう」なら
熱発もないのでショートステイは可能です。
が、
24時間心電図や心エコーを取るので入院!となると、
私の那覇入りは消えてしまいます。
年に一度、師匠のもと全国の教師が集まります。
第一回から10年余り、唯一の皆勤者でしたが、
それも危うくなってきました。
母は「お姉ちゃん、行ってきて」と言ってくれますが、
大層な事になったら、そうはいかんやんね。
寂しく、悔しいけど、諦めるより他にないのか、
それとも、母は不死身なのか…。
全ては水曜日の検査にかかっています。
どうか那覇へ行けますように。
じゃなくて、母に穏やかな日々が戻りますように。
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